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2007年6月

2007年6月10日 (日曜日)

王立徳君のこと

王立徳君は台湾の高雄市からきた留学生だった。1982年のことである。私と同い年だった。尊父は高雄市議会の議長を務めたことがあるそうで,当時貧乏学生だった私から見ると彼は王子様のように見えた。中国語学校の先生の紹介で私は時給900円で彼の日本語教師として雇われた。(今のバイトの時給より高いのはどういうことだろう?四半世紀も前のことなのに!)

ある日,彼の名前が当時私が私淑していた台湾語研究の第一人者の王育德氏と一文字違いであることを指摘すると,彼は少し顔色を変えてそんな人物は知らないといった。

後日彼から打ち明けられるのであるが,台湾独立運動の急先鋒であった王育德氏のことはタブーで,もし関係があると見倣されると台湾で逮捕されてしまうとのことだった。当時台湾は戒厳令下であった。

私の日本語教師としての質が多大な影響を与えてしまったのかもしれないが,彼は志望している大学の入学試験に合格することはできなかった。私は日本語の家庭教師を辞め,彼とも音信不通になって現在に至っている。

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孔婉麗先生のこと

葉寄民先生がお亡くなりになっていたことを昨日知り,孔婉麗先生はお元気であろうかとインターネットで調べていたら,なんと孔婉麗先生もお亡くなりになっていたことをつい先ほど知った。

孔婉麗先生も葉寄民先生が院長を務められていた中国語学校で講義されていた。その当時は鍾姓を名乗っておられたので,生徒は鍾先生と呼んでいた。先生の講義のうまさには定評があり,多くの生徒に慕われていた。私は出来が悪かったのであまり良い生徒ではなかったと思う。ただしバイトで稼いだ金で学費を払っていたので,元を取らねばと必死で,わからないことがあればすぐに質問した。今考えると,おそらく先生にとってみれば授業の進行に支障を来すだけのことだったのかもしれない。

やがて先生は孔婉麗中国語学院を設立された。私はもとの中国語学校にはある事情で行かなくなり,入学を勧められたが孔婉麗先生の学校にも入学しなかった。

光陰矢のごとし。すべて昨日のことのように思い出される。

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2007年6月 9日 (土曜日)

葉寄民先生のこと

葉寄民先生が昨年五月九日に亡くなられていたことを知った。1983年頃,私は先生が院長を務める中国語学校で毎週1回先生の講義を受講した。今思い返してみると,内容の濃い時間を過ごしていた時期が自分にもかつてあったのだと懐かしく思う。

あのころ読んでいたシュリーマンの『古代への情熱』の最後部に書かれている外国語勉強法を模倣して,中国語で文を書き,先生に添削してもらったことがあった。残念ながら自分の実力不足でたった二回ぐらいで終わりになってしまった。
日本語の会話文を適当に自分で作り,それを無理矢理中国語にして持っていったのだから,相当の“臉皮厚”であった。先生は胸ポケットから赤ボールペンを取り出すと,あっというまに添削していった。それは添削というよりも新たに中文翻訳したというほうが正確だろう。中国語添削独特の「トル」の意味のぐるぐるとボールペンの試し書きのようならせんの線が至る所に引かれた。真っ赤になったルーズリーフノート1枚を見て,愕然としたのをまだ昨日のことのように覚えている。

その後,その中国語学校は閉鎖になり,先生方は各自個別に中国語学校を設立された。先生は中国語文学院を始められた。私はある個人的な理由でどの学校にも入学せず,法政大の二部に編入し,明くる年に中国に留学することになった。

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2007年6月 3日 (日曜日)

《呼蘭河傳》について

《呼蘭河傳》第四章翻訳終了した。全訳終了は秋頃かな。発表する当てもないので,ここでこんなこと書いても意味があるのかどうか。今は第五章を翻訳中。

魯迅が亡くなったとき,《呼蘭河傳》の作者である蕭紅は東京にいた。半年に満たない滞在であった。1936年のことである。前年に《生死場》を出版している彼女が何故日本に来たのかどうしてもわからない。

訳していて山本周五郎の『青べか物語』を連想してしまった。

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